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ハレの日とケの日 S様 | 信州せいしゅん村

ハレの日とケの日 S様

 上田市の西南に独鈷山という岩山があり、その麓に未完成といわれる三重の塔がたつ前山寺、参道の入口黒門の脇にある「デッサン館」は窪島誠一郎さんが若くして逝った画家の絵を展示するために建てたもので、毎年村山槐多をしのぶ「槐多忌」が行われています。村山槐多は自由画教育の提唱者であり、上田では農民美術運動を始めた山本鼎の従兄弟にあたります。
 鼎のお父さんが今は上田市ですが当時は神川村の大屋という所で医院を開いていた関係で、槐多もその二十数年の生涯の中のいく月かを上田市周辺で過ごしたようです。私が槐多忌に参列した年は作家の内館牧子さん、俳優の寺田農さん、それに窪島館長、三人の対談で始まりました。

 内館さんは、アメリカの経済至上自由主義の影響で日本と日本人は「ハレ」の日と「ケ」の日の区別を失ってしまったと話しました。ハリウッドやディズニーランド、華やかな芸能界、スポーツ界、経済界、そこから生れるアメリカンドリームというハレの世界に溺れ、その裏で世界の貧困や地球環境の異変などは何処吹く風、経済の繁栄維持のためには戦争も仕掛けるといったあの国の暗部に目を向けることもなく、日本人すべてが超アメリカン利己主義コーヒーを飲んでいるかの様だとも表現されました。
 何でも手に入る物質的な豊かさは毎日を「ハレ」の日にしてしまいました。かつては砂糖水やキャラメルやバナナや生卵が「ハレ」の日の象徴でした。出かける時やお祝いの時、普段の生活「ケ」の人違う病気の時だけ食べるものでした。衣食住、皆「ハレ」の日があり、それが人々に元気を与えてきました。しかし「ハレ」の日は時々あるからこそ意味があるのであって、毎日がハレであることはケの日が無くなってしまうということです。
 ハレとケの区別が殆どなくなってしまったのは私の生業「木」に係わる「住まい」でしょう。一年の中で最高のハレの日であるお正月を迎えるために障子を貼りかえ、畳の表替えをし、床の間に花を飾り、おめでたい掛け軸をかける、その家に受け継がれてきた伝統、歴史、文化、美意識、品性等が輝く日でありました。しかし今はテレビをつければ画面はいつでもハレの日です。お正月、節分、節句、お彼岸、お盆、餅つき、年取り等、本来住まいの行事であったものは、テレビという機械の中の行事になってしまいました。

 「ハレ」の日と「ケ」の日の区別がなくなると素直な喜びや感激、感動がなくなってしまいます。かつて「ケ」の日は粗食で満足し、つぎのあたった着物で寒さをしのぐ日でした。そしてその中に地域の人が互いに助け合い、分かち合い、生かし合う共生の姿がありました。アメリカ型物質社会に覆われてそんな日はなくなりましたが、それが本当の幸せをもたらしたでしょうか。豊かな感性が生きる「ケ」の日こそ幸せが輝く日ではないでしょうか。

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