長野県ほっとステイ協会

今、農村に暮らしていて現状を見たときに何が出来るか??

やる気のある人が集まって、腹を割って、語り合っった。

やれることで協力し合って、お互いに寄与しあうと誓った。

毎月1回、開催されてきた「実務者会議」

2002年
1.背景、農村の現状
今、農村は 農業の活力が失われた事により 農村生活が維持出来なくなりつつ有ります。農村の特性である米野菜の生産を行い 収入を得る事が難しくなってきたからです。
この原因としては 働く割に都市労働者ほど収入を見込めない、あるいは3Kと嫌われ 若者の農業離れが起こり従事者の高齢化による生産能力の低下、世界的な貿易が行われる中で 外国の安価な農産物が輸入され 国内価格が下落して生産意欲を減退させ、これらに拍車が掛かる悪循環など 様々な要因があります。  
若者は楽で収入になる都市部に仕事を求め 農村を離れ、村は過疎化し 高齢化率も30%台に入り 少子高齢化が益々顕著になり 色々な問題を露呈して来ています。

人口が減ることで 公共機関の都市集中により 医療、教育の不便さを強いられたり、村や集落で行う行事の運営に支障がでたり、雪の除雪が出来ずに 道路に出てこられない老人家庭、奥まった集落では周囲に子育てをする人が見あたらない為に そこで子育てを断念したりと 思わぬ余波まで生じてきており、この状態が続けば近い内に 農村には後を引き継ぐ若い人がいなくなってしまう 異常事態も予測されています。
更には 財政改革が叫ばれ 市町村合併が行われる中で、今まで過疎地域と云われた農村は財政的に手厚い保護を受け それにより成り立ってきたのですが、 実施されれば 農村部には投資が控えられ 今まで通りの活動が制約され、地域の独自性が失われ 益々住みにくい農村として拍車が掛かるでしょう。
日本に農村が無くなっていいと 考えているのでしょうか。

2.背景、農林業の悩み
我が国の農業は衰退をたどり、食料自給率は欧米先進国と云われる国々は軒並み100%前後の率を保っているのに すでに40%を下回ってしまいました。

しかしながら国はこの状況を 憂える心ある国民任せ或いは農家任せにして、食料確保を国民全体に問い掛けもせず、放置しているかのように感じられます。
自分の身は自分で守る、特に食に関しては なぜ他国任せにせず国内生産でと 緊急事態時の最低限の確保をしようとしないのか判りません。
学校の教科書でも新聞でも 数字は紹介されていますが それに対してどう行動しようとは教えられていない、書かれていないのです。
指示することが 何か悪い事をするように捉えているのでしょうか。

この状況下で農業を行っている人達は 継続して営めるかどうかと 危機感を深め、深刻に悩んでおります。
平坦な広大な水田や畑が続く農村地帯は 大型機械化により農産物の生産を行い、市場出荷しても量的にもまとまる為に評価され、値段が付き 販売代金を得る農業が営めますが、減反政策による制限、輸入農産物による価格低下には 対応出来ず不安を抱えています。
一方、中山間地と云われる農村地帯は 国際競争価格がある中で、それに加え 大型機械化の導入も出来ず、耕作面積、規模、従事者からみて 国内大産地に対して農産物を市場出荷して 生計を立てる事はきわめて困難な為に後継者が無く、また過疎化による従事者の減少、高齢化、鳥獣被害により作付けを止めてしまい、農産物の生産の減少に歯止めが掛かりません。
これらにより今、全国で荒廃農地が益々増加する傾向を示し、この村でも 遊休荒廃農地が5年間で5割増加しています。

解決方法として農地の流動化、機械化、技術対策、販売系統の確立、後継者支援、地域連携施策、施設整備、新品種導入、有機農法促進、市民農園の設置等行われております。 
しかし このほとんどの施策が 国際価格競争を念頭にした市場出荷農業の手段・方法であり、今後益々盛んになる貿易自由化の中では、この手段・方法を押し進めているだけでは 中山間地の農業では 経営規模の拡大や合理化をいくら進めても 今日の状況からして 国際価格に対応する事は難しく 衰退するだけであります。
さらに 高齢者の農業経営においては 市場出荷主体の今までの形態では、規格の統一や量の確保等出荷にかかわる負担の増で 出荷量が減少し市場価格が不平等に扱われ、低価格にしかならず 作付けが減少し、ますます農地の遊休化が 進展するものと予測されます。
又、米の収穫量を押さえる為の 作付けを減らす水田の減反政策により 水田の40%弱が毎年作付け出来ずに一部耕作放棄され、他作物を作るにしても 国の補助金政策の恩恵を受ける生産者のみで、ここに来て米の生産調整の在り方も議論され 廃止されればもっと大変だと 大産地ですら大きく不安を募らせています。
更にいわゆる「鳥獣害被害」と云われる農作物に対するサル、イノシシ、シカ、タヌキ等の野生獣や ムクドリ、カラス、ハト等の野鳥による被害が増加し、作付けをあきらめてしまった地区・田畑も数多く見受けられます。
先頃の県の統計に依りますと遊休荒廃農地は この5年間に長野県全体では14%増加したと 報告されており、米の輸入完全自由化、米の生産調整廃止になれば、山の荒廃した原因の『木材の二の舞』になりかねないのです。

林業はもっと悲惨です。貿易自由化により海外から安い木材が輸入された事により、国産材が使われなくなり、日本国中の山は省みられず、山は荒れ放題で、今 大問題なのです。
世界一の木材輸入国で、世界一の食料輸入国が 世界一の緑豊かな国と云われ、緑豊かで水が有り余っている国と人々は思っていても 輸入食料を生産するために使う水を計算すると 日本人が使う水は今の倍になり 国内の水では足りませんし、材木まで計算すれば 莫大な数字になるのです。

輸入自由化を叫ぶ人々や自然保護を訴える人々には 何の不利益も及ぼさないのでしょうが 農・林家にとっては切実な問題で 収穫・収入が生きていく上での 不可欠な事なのです。農業をやるなと云うことでしょうか、農村の人の生活保障はどう考えているのでしょうか。農村が機能すれば これらの諸問題は解決される筈なのです。

3.背景、『食』を考える
《信濃毎日新聞の「斜面」欄、『世界人口白書』の記事》

2ドル、約240円というと日本では、
たばこ一箱分の値段にも足りない。
いま世界の人口61億人に達した。そのうちの半数までが
一日2ドル以下で生活している。 たばこ一箱にも満たない。
今年の世界人口白書が浮き上がらせた貧富の格差である。

240円では、中学生や高校生の携帯電話料金さえ、
一日分まかなえるか怪しい。
バスや電車にちょっと乗れば、もう消えてしまう。
コンビニの弁当は食べ残したまま、飲み物の缶は
ポイ捨ての日常がまかり通っている。
較べて発展途上国では、どうか。 
約8億人が、慢性的な栄養不足にある。
11億人ほどが、清潔な水を利用できないでいる。 
不衛生な水に頼らざるを得ず、
劣悪な衛生状態ゆえに毎年1200万人が死亡している。
大都市の住民は大気汚染から逃げられないため、
300万人近くが犠牲になっている。

これでもかこれでもかと、人口白書は数字を並べる。
豊かな先進国の資源浪費が目に余る一方で、
発展途上国の住民を飢餓、病気がさいなむ。
途上国に住む約49億人のうち、
四分の一は適切な住居を持たない。
5年生を終えるまで学業を続けられない子が20%はいる。
厳しい現実だ。これほど極端なアンバランスをそのままに、
国際社会が安定するはずがない。 
憎むべきテロも、貧困な土壌を巣くい反感を栄養に行動へ走る。
戦火による難民だけでない。環境破壊が人口移動を引き起こし、
環境難民を生む。 飽食に慣れては罪深い。

人口白書として 先進国と発展途上国との関係が語られていますが、日本でも半世紀前は同様の生活が行われていたのです、古老に聞いて見て下さい。農業・食料問題は 新たな視点で考え 取り組んでいかなければならない時代を迎えて来ております。どうすればいいのか、どのように捉えていくかは 皆様方次第です。

4.背景、自然体感の必要性  
現代人の自然や農業・農村と接する時間の無さ、経験の乏しさに 強い危機感を覚えます。特に未来を担う若い少年に対する 大きな心配事ではないかと思っております。

少年時代に色々な事を体験した事のある大人は 物事を比較する力を持っていて、体験のない少年達は 目の前にあることが全てで 比較する事が出来ないと云われます。昔は町や村の家の外には子供が溢れていて あちらこちらで嬌声がしていたものでした。
「子供が野外で遊ばない」と云われて久しいですが、今は「子供が野外に出ない」と地球上の問題だと云われており、「自然の姿を全く知らない」子供達が急増しています。文明化の特徴として仕方がないとはいえ、テレビやテレビゲームに夢中で釘付けです。昔は遊びの中でケンカをしても終わると『仲間・仲良し』になったのですが「野外に出ない」子供達は本物の体験をしているのではないので 喜怒哀楽が上手く表現出来ない、判らない、味わえない。その結果、喜怒哀楽が判らない子供は「切れる」のです。そんな世界に子供達は居るわけで 大人が理解できない子供達が増えているのです。

生きる目的や意義を感じがたい社会に育つ子供達には 不可解な社会観、価値観、文化観が生み出され、人間の存在感の希薄化や物事の不確実性によって 利己主義的人間が発生し、情緒不安定児が多くなってきているのです。
私達人間は 生きる為には 食料を恒久的に確保していかなければなりませんし、「食」だけで生きられず 水、土、空気の地球環境や 精神も健全で無ければなりません。

野山を駆け回り、田畑を歩き回り、遊び働く中で 自然の営みは 人々に対して『自然の姿や不自然な形』、『優しい自然と厳しい自然』と 様々な事を教えてくれます。
両方あるが為に 思うように進まないのが自然であり、 自然相手の農業・農村生活ですが、でもそのお陰で 予期しない出来事でも 臨機応変に対応出来るようになります。
自然に接し、感性の豊かさが問われる自然が秘める不思議さに教えられる、特に若い時は  本当の自然の姿に接し、学び、心揺さぶられる感動がなければならないのです。 

ノーベル化学賞を受賞した化学者で名古屋大学の
野依良治教授がインタビューで
『 少年時代に魅せられた 科学との長く深い付き合いの結果です。
科学というものは、自然の仕組みであり、美しく、エキサイティング
なのです 』と語っています。
そして『 学校に入る前の子供は、虫も草も月も花も好きですよね。
これが社会のひずみ、過剰な競争の中で 本当の自然に
接しないので、感性を失っている。 』とも語っています。

物はあふれ暮らしは豊かになっても、 人間の成長過程の早い段階から あれもこれもと詰め込んでいくことが、将来のたくましい知性を はぐくむとは限りません。 

5.感動を伝える村-21世紀型農村
私達は衰退する農村が『50年後・100年後には農村が無くなって良いのか、無くて良いのか、なくてはならないのか』を議論し 研究を行い、その姿を模索・想定し、世に警鐘を鳴らす為に 21世紀の農村の存在価値を 見いだす『大胆な目標・目的を掲げて行動して行かなければならない』と考え、二通りの農村を描きました。

第1次産業である米や野菜を生産し出荷を行って成り立つ農村〔第一次産業農村〕と 市場価格競争でない、中山間地農業を再認識する「日本的な農業」を行い、第3次産業と言われるサービス産業的な位置づけで成り立つ農村〔サービス提供型農村〕でした。

科学技術の発展した現代の豊かで平和な社会に住む文明人は、人間の野性的機能や自然と共に生きる生活の知恵の重要性を忘れ、気付かないままに生活しています。
中山間地と云われる農村は、国が経済成長をする中で都市が失ってしまった素晴らしさを残し、昔ながらの豊かな自然や隣近所との色濃い生活が当たり前のように残っている農村は、農産物の生産だけで農村を捉えると悲観的な考え方になってしまいます。
しかし、都市にはない自然と調和した農村の環境は、人々に安らぎを与え、21世紀にはその潤いを求め都市志向型から農村回帰に向かうと予測されていますし、都会には無い教材や先生(特にお年寄り)がたくさん存在し、古老の体験談を始め人々に様々な事を伝えられます。

ここでは「日本的な農業」を行い、田舎の豊かな自然環境や農村風景を守り、その環境にない人々に農村体験として 農村交流や農業体験を通じ提供し、滞在して貰い 心身のリフレッシュや 農業の大切さ、食の大切さ、自然の営みを伝える中で、『感動を伝える村』として、人間性を育てていく場所としてその存在意義を見出し、農業、農村の活力を取り戻し 荒廃農地の回復を果たし 失いつつある農業生産力を守り高めて行くのです。

この農村の〔サービス提供型農村〕の形態を、
21世紀型農村として『長野県のモデル農村』を目指し、また
『日本の新しい農村の姿の発信地』にしよう と 
この考え方の支持者の力を集め、お借りし、作り上げようと、
「共に野山に遊び 祭りに加わり 大地を耕す」を目標に掲げ
農村・農業の活性化活動を私達は推し進めています。

長野県内でもこの村は 近隣町村と較べてはるかに豊かで安全な自然環境と農村風景があり のどかな田舎は一番の魅力で 『何もない村』と云われるぐらい昔ながらの村なのです。
自分たちの口に入る物を自分たちで作り食卓を囲み 自然の移り変わりや野菜の出来を和気あいあいと語り合う家庭の暖かさ、お金の豊かさは無いが心の豊かさがあります。

『生きる原点、農村』ここには学ばなくてはならない事がたくさん有り、教えてくれます。
農村の恵まれた自然環境の中で生活していると 心の奥深くに本物の優しさが育つと云われ、この村人と共に行う農作業や体験談を聞く事による 生きるに必要な力を培う体験が 本当の感動を呼び、少年達の生きる力になり、為になるのです。